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気になる記事があったので、ドラえもんについて本気出して考えてみた。
「ドラえもん」の呆れた制作裏事情 (アマ・ジャナ)
一通り読んでもらえればこの件についての内容は解ると思いますが、やり手のプロデューサーの安達氏が国民的アニメ「ドラえもん」の視聴率向上のためのスタッフとして抜擢されたのですね。歴史も古く、知らない人がいないというほどの知名度と、影響力も全国区の番組だけに、嬉しさあまって自らのブログで、「自分がこうした事で何パーセントの視聴率向上に繋がった。」のようなかたちで報告していたわけですね。
しかし、見てる視聴者側からすると製作サイドの視聴率事情などを聞かされるほどつまらないものはないのです。まして、それまでの作品の持つ雰囲気を壊してまで『視聴率』のみに拘る姿勢に嫌悪感を抱いてしまうのは当然の話です。そういう思いが積み重なって、安達氏の作品に対する姿勢に非難が集中したと言うのが上の記事の件の概要です。
さて、この件についてどう思いますかね。
ドラえもんの世界観を破壊してまで『視聴率』ばかり重視する安達氏は悪者なのでしょうか。私はそうは思いません。むしろ自分の仕事をしてただけなのですよね。安達氏の仕事は如何にして視聴率を上げるかということですから、もし視聴率が上がっていると言うのであれば「結果」を出していると言う評価になるのですよ。販売店が「売上」と「利益」を如何にして獲得するのか試行錯誤してる様子とにています。どちらも、視聴者側・お客側からすると聞きたくない話です。こういう話は内々ですることであって、個人名義のブログなどでお話しすることは周りに不快感を与えるだけですので、安達氏にミスがあるとするならおそらくその点に対してだけだと思います。
では、なぜこのような流れになってしまうのかというと、スポンサー問題や資金面の問題などが視聴率に大きく絡んでくるからではないでしょうかね。これは「ドラえもん」だけではなくてどの作品でも言えることなのですが、作品や作風というものは『大人の事情』に左右されるものなのですよね。
事情を知らない有力者が口を挟んでるだけという場合も有ります。スポンサーのお偉方が、「○○を起用してみてはどうかね?」なんて言ったらなかなか断れないのではないかな。この件とは直接関係ないかもしれませんが、「日本のアニメーターの7割が年収100万円以下…」なんてお話もありますし、視聴者気持ちをそのまま反映した作品作りというのはいろいろ難しいものなのですよね。
こういう事情を踏まえたうえで一番気になった言葉がコレですね。
「本当のドラえもんとはなんですか?」
『本当のドラえもん』というのはとても深いです。簡単に語れるものでは有りません。しかし、この言葉を使ってる人も『本当のドラえもん』を理解しているのか私は疑問を覚えましたね。『本当のドラえもん』の捕らえ方の違いこそがこのお話のコメント欄などの意見がまとまらない最大の理由なのですよ。そもそも、『ドラえもん』の与える印象は単一ではありませんから、こういった議論自体が不毛なのですよ。
ドラえもんのイメージというのは大きく3つに分けることが出来るのではないでしょうかね。①国民的文化としてのドラえもん、②商品としてのドラえもん、③藤子先生のコミックスのイメージのドラえもん、の3つです。
①国民的文化としてのドラえもん
ながい歴史が積み重ねてきた作品のイメージ。のび太が発奮してやる気を見せるという場面や、仲間との絆などが『教育的』であるという見かたが出来るなどの理由から、子供にみせるアニメとして認識されている。
アニメでしかドラえもんを知らない人のほとんどがこのイメージなのではないでしょうか。小学館「小学○年生」のドラえもんのキャラを使った環境保全とかの付録なんかもこのイメージを印象付けていますね。上の件のコメント欄で語ってる人の多くもやはりこの印象っぽいですね。
②商品としてのドラえもん
全国区で認知されたキャラクターとしてのドラえもん。
商品としての価値を常に磨かれてきたからこその国民的キャラクターであり、絶対に否定できない要素なのですよね。さまざな企業や施設とのタイアップで、キャラクターが浸透しているからこその知名度であり人気というのも忘れてはいけないです。スポンサーあってのキャラクターです。
③藤子先生のコミックスのイメージのドラえもん
藤子先生が愛したドラえもん。
ドラえもんはそんなお子様にお勧めできるような優秀なキャラクターじゃありません。登場キャラはみんな性格がかなり悪いし、暴言なんて吐きまくりです。差別発言問題発言もバンバン飛び出します。でもそんなキャラ達が時折見せるやさしさなんかが読み手のココロを打つのですよね。『個性的な』という表現はよく使われますが、『人間味にあふれた』キャラクターがそろっているのがこの作品の最大のみどころなのですよ。ドラえもんと言う作品は、本当は社会を風刺したギャグマンガなのです。
アニメしかみてない人は藤子先生の作品は少年に夢を与えるとかなんとか語りますが、それはアニメを作っている人がお子様に親しみやすいように作ってるだけの話。
藤子先生の漫画の本当の面白さは、読み手をハラハラ・ドキドキさせてその世界間に取り入ってしまうような魅力溢れる作風なのですよ。今では表現に規制が入ってしまいそうな、残酷な描写や性的な描写も描かれていました。少年時代に藤子先生の漫画を読むと、とても感受性を刺激されます。藤子先生が作品を通じて何を伝えたかったのかと言う直接的な表現こそ残っては居ませんが、様々な伝説が語られていますね。
藤子先生の作品はほとんどアニメ化してますが、原作のイメージを拡大してアニメを作ってますから深いところで食い違いが生じる事があります。キテレツ大百科なんて農協の出版物で連載してたマイナーな漫画だったのに、テレビアニメはゴールデンで10年近く放送し多くの人に知られる事となったという経歴も有ります。ですから、ドラえもんもアニメと商品と漫画の「メディアミックス」作品として捕らえた方が良いのかもしれません。そう考えれば、イメージなんてものはそれぞれ個人の問題でしかないのだから、答えを一つにしようと言う事自体おかしな事に思えてきます。
ちなみに私は③のコミックスのイメージのドラえもんが一番好きです。もちろん大長編も含めてですね。真にドラえもんの面白さを知ってる人はおそらくコミックから入ってるはずですよ。ドラえもんをブラックユーモアのギャグマンガとしてもう一度手にとっていただければ、もっとドラえもんを好きになってもらえるのじゃないかな。(参考:ドラちゃんの本音)
まとめると、未だに声優が変わったなんだと言ってる人が居る事にも驚いたと言う話。私たちの世代が愛した、大山ドラは終了し今のドラえもんも今の子供達にちゃんと愛されています。作品のイメージというのは自分だけのものですから、今の作品も認める努力が必要ですよと言う話。理想のドラえもんを維持し続ける為には、某外務大臣閣下の御力が必要になると言う事ですよ。
キューティーハニーはフラッシュしか知らない世代の私の話。
鬼太郎は夢子ちゃんがいる第三期が一番好きな私の話。
バカボンは平成天才バカボンの私の話。
リメイク作品に理想を語るのはおかしな話という話。
「ドラえもん」の呆れた制作裏事情 (アマ・ジャナ)
一通り読んでもらえればこの件についての内容は解ると思いますが、やり手のプロデューサーの安達氏が国民的アニメ「ドラえもん」の視聴率向上のためのスタッフとして抜擢されたのですね。歴史も古く、知らない人がいないというほどの知名度と、影響力も全国区の番組だけに、嬉しさあまって自らのブログで、「自分がこうした事で何パーセントの視聴率向上に繋がった。」のようなかたちで報告していたわけですね。
しかし、見てる視聴者側からすると製作サイドの視聴率事情などを聞かされるほどつまらないものはないのです。まして、それまでの作品の持つ雰囲気を壊してまで『視聴率』のみに拘る姿勢に嫌悪感を抱いてしまうのは当然の話です。そういう思いが積み重なって、安達氏の作品に対する姿勢に非難が集中したと言うのが上の記事の件の概要です。
さて、この件についてどう思いますかね。
ドラえもんの世界観を破壊してまで『視聴率』ばかり重視する安達氏は悪者なのでしょうか。私はそうは思いません。むしろ自分の仕事をしてただけなのですよね。安達氏の仕事は如何にして視聴率を上げるかということですから、もし視聴率が上がっていると言うのであれば「結果」を出していると言う評価になるのですよ。販売店が「売上」と「利益」を如何にして獲得するのか試行錯誤してる様子とにています。どちらも、視聴者側・お客側からすると聞きたくない話です。こういう話は内々ですることであって、個人名義のブログなどでお話しすることは周りに不快感を与えるだけですので、安達氏にミスがあるとするならおそらくその点に対してだけだと思います。
では、なぜこのような流れになってしまうのかというと、スポンサー問題や資金面の問題などが視聴率に大きく絡んでくるからではないでしょうかね。これは「ドラえもん」だけではなくてどの作品でも言えることなのですが、作品や作風というものは『大人の事情』に左右されるものなのですよね。
事情を知らない有力者が口を挟んでるだけという場合も有ります。スポンサーのお偉方が、「○○を起用してみてはどうかね?」なんて言ったらなかなか断れないのではないかな。この件とは直接関係ないかもしれませんが、「日本のアニメーターの7割が年収100万円以下…」なんてお話もありますし、視聴者気持ちをそのまま反映した作品作りというのはいろいろ難しいものなのですよね。
こういう事情を踏まえたうえで一番気になった言葉がコレですね。
「本当のドラえもんとはなんですか?」
『本当のドラえもん』というのはとても深いです。簡単に語れるものでは有りません。しかし、この言葉を使ってる人も『本当のドラえもん』を理解しているのか私は疑問を覚えましたね。『本当のドラえもん』の捕らえ方の違いこそがこのお話のコメント欄などの意見がまとまらない最大の理由なのですよ。そもそも、『ドラえもん』の与える印象は単一ではありませんから、こういった議論自体が不毛なのですよ。
ドラえもんのイメージというのは大きく3つに分けることが出来るのではないでしょうかね。①国民的文化としてのドラえもん、②商品としてのドラえもん、③藤子先生のコミックスのイメージのドラえもん、の3つです。
①国民的文化としてのドラえもん
ながい歴史が積み重ねてきた作品のイメージ。のび太が発奮してやる気を見せるという場面や、仲間との絆などが『教育的』であるという見かたが出来るなどの理由から、子供にみせるアニメとして認識されている。
アニメでしかドラえもんを知らない人のほとんどがこのイメージなのではないでしょうか。小学館「小学○年生」のドラえもんのキャラを使った環境保全とかの付録なんかもこのイメージを印象付けていますね。上の件のコメント欄で語ってる人の多くもやはりこの印象っぽいですね。
②商品としてのドラえもん
全国区で認知されたキャラクターとしてのドラえもん。
商品としての価値を常に磨かれてきたからこその国民的キャラクターであり、絶対に否定できない要素なのですよね。さまざな企業や施設とのタイアップで、キャラクターが浸透しているからこその知名度であり人気というのも忘れてはいけないです。スポンサーあってのキャラクターです。
③藤子先生のコミックスのイメージのドラえもん
藤子先生が愛したドラえもん。
ドラえもんはそんなお子様にお勧めできるような優秀なキャラクターじゃありません。登場キャラはみんな性格がかなり悪いし、暴言なんて吐きまくりです。差別発言問題発言もバンバン飛び出します。でもそんなキャラ達が時折見せるやさしさなんかが読み手のココロを打つのですよね。『個性的な』という表現はよく使われますが、『人間味にあふれた』キャラクターがそろっているのがこの作品の最大のみどころなのですよ。ドラえもんと言う作品は、本当は社会を風刺したギャグマンガなのです。
アニメしかみてない人は藤子先生の作品は少年に夢を与えるとかなんとか語りますが、それはアニメを作っている人がお子様に親しみやすいように作ってるだけの話。
藤子先生の漫画の本当の面白さは、読み手をハラハラ・ドキドキさせてその世界間に取り入ってしまうような魅力溢れる作風なのですよ。今では表現に規制が入ってしまいそうな、残酷な描写や性的な描写も描かれていました。少年時代に藤子先生の漫画を読むと、とても感受性を刺激されます。藤子先生が作品を通じて何を伝えたかったのかと言う直接的な表現こそ残っては居ませんが、様々な伝説が語られていますね。
藤子先生の作品はほとんどアニメ化してますが、原作のイメージを拡大してアニメを作ってますから深いところで食い違いが生じる事があります。キテレツ大百科なんて農協の出版物で連載してたマイナーな漫画だったのに、テレビアニメはゴールデンで10年近く放送し多くの人に知られる事となったという経歴も有ります。ですから、ドラえもんもアニメと商品と漫画の「メディアミックス」作品として捕らえた方が良いのかもしれません。そう考えれば、イメージなんてものはそれぞれ個人の問題でしかないのだから、答えを一つにしようと言う事自体おかしな事に思えてきます。
ちなみに私は③のコミックスのイメージのドラえもんが一番好きです。もちろん大長編も含めてですね。真にドラえもんの面白さを知ってる人はおそらくコミックから入ってるはずですよ。ドラえもんをブラックユーモアのギャグマンガとしてもう一度手にとっていただければ、もっとドラえもんを好きになってもらえるのじゃないかな。(参考:ドラちゃんの本音)
まとめると、未だに声優が変わったなんだと言ってる人が居る事にも驚いたと言う話。私たちの世代が愛した、大山ドラは終了し今のドラえもんも今の子供達にちゃんと愛されています。作品のイメージというのは自分だけのものですから、今の作品も認める努力が必要ですよと言う話。理想のドラえもんを維持し続ける為には、某外務大臣閣下の御力が必要になると言う事ですよ。
キューティーハニーはフラッシュしか知らない世代の私の話。
鬼太郎は夢子ちゃんがいる第三期が一番好きな私の話。
バカボンは平成天才バカボンの私の話。
リメイク作品に理想を語るのはおかしな話という話。
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